東京の土地改良事業の歴史

Land Improvement History

水土里ネット東京は、昭和33(1958)年の設立以来、東京の各地域の実情に応じた土地改良事業の技術支援にあたってきました。こうした連合会事業からは東京の農業の歴史をたどることができます。また、水土里ネット東京の設立の経緯や当時の「土地改良だより」からは、東京にもまとまった農地が広がり、生産の効率化のために土地改良事業が盛んに行われていた様子がわかります。
ここでは、江戸時代の武蔵野の新田開発や、各地域で行われてきた土地改良事業、水土里ネット東京の歴史をご紹介します。

土地改良事業のルーツ・武蔵野の新田開発

江戸が発展・拡大するにつれて飲料水の需要が増したことから、幕府は多摩川の水を江戸まで引くこととしました。1654年、武蔵野の原野を切り開き、羽村から四谷大木戸(甲州街道の江戸の出入り口に当たる関所)までの43kmの玉川上水が完成しました。
玉川上水の通水により、その分水が武蔵野台地の各地域に暮らしの水を供給できるようになり、1716年に始まった8代将軍徳川吉宗の享保の改革により、本格的に新田開発が進められました。
当持、青梅街道や五日市街道などの街道に面して、間口は狭く、奥に長く伸びる短冊状の農地は、多くの入植者が農業を行えるよう配慮された設計となっています。
その先駆けとなった小川村の新田開発の地割図が残されています。村の南側に玉川上水、北側にはその分水である野火止用水、中央の青梅街道の両側には小川用水が流れています。
玉川上水の開削は、これまで未開の地であった武蔵野台地に人々が生活できるようになるとともに、これに伴い実行された新田開発は、歴史的に見てもダイナミックな土地改良事業と言えます。

上水の工事に当たった玉川兄弟の像

羽村取水堰

現在の玉川上水・小平市

青梅街道沿いの小川用水

小川家文書「小川村地割図」延宝2年(1674年)頃作成                               小平市中央図書館所蔵

東京に広がる田園風景・多摩地域の土地改良事業

多摩地域では、昭和から平成にかけて、まとまった農地のある農業振興地域を中心として、農業の機械化・効率化、生産性の向上を目指し、土地改良区や市町村が実施主体となり、農地や農道、農業用水施設の整備などの土地改良事業や農業構造改善事業が盛んに行われました。その多くは、現在でも農産物の生産拠点として農業が活発に行われ、東京では少なくなった田園風景が広がっています。また、山村地域では、各農業事情に合った基盤整備が行われ、ワサビなどの特産品が生産されています。
一方、市街化区域では、急速に都市化が進み農地は減少しましたが、生産緑地では、消費地が近いなど都市のメリットを経営に活かす“都市農業”としての分野を開拓し、生産者の様々な取り組みが見られます。
ここでは、いくつかの土地改良事業の事例をご紹介します。

秋多町(現あきる野市)東秋川地区

まとまった農地が広がる畑作地帯でしたが、生産基盤が未整備で、機械化など農業の近代化が課題でした。このため、昭和38~39年度に区画整理65haや農道整備などの農業基盤整備事業を実施しました。現在でも都内有数の大規模な畑作農業地域です。

広々とした畑作農業地域

トウモロコシ畑とファーマーズセンター

八王子市

農業生産基盤と農村環境関連施設を総合的に整備するため、昭和50年度~平成元年度に、加住・川口・恩方地区の22集落で農村総合整備モデル事業を実施しました。事業は、ほ場整備12.5haや農道整備7.2km、農村環境改善センター2か所、農村公園など多岐にわたりました。

高月地区ほ場整備事業の記念碑

田植えの準備

青梅市今寺藤橋地区

まとまった水田の広がる農業振興地域で、農業生産の効率化と水田転作に伴う畑作物の安定生産を目指し、昭和54~57年度に農村地域農業構造改善事業の一環としてほ場整備事業を実施し、農業用水路0.5kmや暗渠排水集水渠1.2km、農道1.8kmなどを整備しました。

整備された水田ほ場

様々な畑作物も栽培

小川久保土地改良区(平成14年2月解散)

あきる野市小川に約12haのまとまった農地があり、秋川左岸に位置する概ね平坦な水田地帯です。平成10~14年度に土地改良事業により、農道、用排水路等の整備、客土による土壌改良、区画整理等の基盤整備を行い、農地を整理し集団化しました。

当連合会の名も刻まれた記念碑

田植え直後の水田

厳しい自然環境を克服・島しょ地域の土地改良事業

島しょ地域の農業は、花き・観葉植物、アシタバ、かんきつ類などの栽培が盛んで、島の基幹産業となっています。しかしながら、農地は防風林に囲まれた狭小地や傾斜地も多く、火山灰土壌であるため水が不足しています。また、強風の日が多いなど自然環境は厳しく、さらに、噴火や豪雨などの災害にもたびたび見舞われ、こうした過酷な環境下で農業を行うために土地改良事業は不可欠でした。
比較的規模の大きな国庫事業に加え、東京都単独の小規模な土地改良事業も活用しながら、各島の実情に応じたきめ細かな農業基盤整備を実施してきました。
農業用水や農道などが整備されると、風にも強いビニールハウスが次々と建てられ、施設園芸産地としての条件が整備されてきました。
ここでは、その一例をご紹介します。

大島町

北西部の農業開発のため、昭和43~45年度に島しょ部で唯一の農免道路(基幹農道)を整備しました。また、農業用水確保のため、平成6~15年度に南部地域に水を供給する滝川貯水池と農地へのパイプラインを、平成19~22年度に北西部地域を受益とする沢立貯水池とパイプラインを整備しました。

滝川貯水池

特産ブバルディアの施設栽培

三宅島雄山の噴火

昭和37年、58年、平成12年に噴火し、農地や農業用施設に甚大な被害をもたらしました。平成12年の噴火では全島民避難を余儀なくされ、農地85ha、農業用貯水池2か所、農道3か所が被災し、当連合会は復旧工事設計や工事施工管理業務を村から受託し、災害復旧に取り組みました。

泥流で埋まった農業用水取水施設

復旧した取水施設

八丈町

全国的な観葉植物やアシタバ等の産地で、山間の傾斜地まで農地利用されており、国や都の事業を活用し、農道や農業用水等の基盤整備を行ってきました。また、平成12~18年度には、“島全体がミュージアム”をテーマに田園空間博物館事業を実施し、親水公園や体験農園、農道等を整備しました。

整備した水田で田植え体験

農道整備

島しょの農地造成

比較的規模の大きいほ場整備事業が行われました。新島村では、昭和55~58年度に久田巻地区で区画整理5.5ha、農地造成3.6ha、神津島村では、平成17~20年度に田の沢地区で農地造成6.4haが行われ、両地区とも農道・農業用水施設なども整備され、まとまった農地が誕生しました。

久田巻ほ場全景

ほ場内のアシタバ畑

田の沢地区ほ場整備

ほ場内の農業研修施設

区部でも行われていた土地改良事業

連合会が発足した昭和33年当時は、区部でも、練馬・世田谷などの西部地域や荒川・江戸川流域の北東部地域を中心に農地が広がっていました。初代連合会長には板橋区の赤塚土地改良区理事長が就任し、発足後は、江東3区(足立区、葛飾区、江戸川区)や練馬区などで、土地改良区が事業主体となって農地の区画整理事業が行われました。昭和30年代、連合会は、葛飾北部土地改良区(受益50ha)や大泉土地改良区(受益54ha)など、14の土地改良区から事業を受託し支援にあたりました。
その後、日本が高度経済成長期を迎えると、東京の人口も昭和32年の840万人から第一次石油ショックの昭和48年には1,160万人へと増加し、とりわけ区部の水田地域では大型団地をはじめとした住宅地域に変貌するなど、急速に都市化が進行しました。一方で、区部の農業は、コマツナ等の野菜の施設栽培など集約型農業へと進化していきました。
現在でも、住宅地の中に、当時の土地改良事業の完成記念碑を見ることができます。

当連合会が事業を受託した土地改良区

新中川沿岸第二土地改良区綾瀬川以西第一土地改良区鹿骨土地改良区
新中川沿岸第三土地改良区石神井土地地改良区篠崎連合土地改良区
葛飾北部土地改良区大泉土地改良区水元下河原土地改良区
綾瀬川以東第一土地改良区仲町土地改良区上平井土地改良区
綾瀬川以東第二土地改良区長島土地改良区
大泉土地改良区記念碑

大泉土地改良区記念碑(練馬区 北豊島橋緑地内)

鹿骨土地改良区記念碑(江戸川区 鹿島神社内)

葛飾北部土地改良区記念碑(葛飾区 水元神社内)

新中川沿岸第二土地改良区記念碑(葛飾区 細田神社内)

水土里ネット東京の設立

東京都土地改良事業団体連合会が設立された昭和30年代は、第2次世界大戦からの復興を遂げ、日本は高度経済成長期で、東京タワーの建設や新幹線の開通、東京オリンピックの開催など、経済大国に向かって躍進していく時代でした。
こうした中、昭和32年に土地改良法が改正され、土地改良事業団体連合会の規定が法制化されたことに伴い、東京都土地改良協会は解散されました。
同時に、法人としての更なる充実強化を図るため、連合会の設立に向け、昭和33年に土地改良区を中心に設立発起人会が開催されました。設立発起人は18名で、発起人代表には板橋区赤塚土地改良区理事長の鈴木義顕氏が選任されました。
昭和33年3月15日に、土地改良区や市町村38団体の賛同のもと、有楽町の日本交通協会大講堂で創立総会が開催され、初代会長には鈴木義顕氏が選任されました。
その決議に基づき土地改良法による設立認可申請書を農林大臣に提出し、7月29日に設立が認可され、東京都土地改良事業団体連合会が発足しました。
会員数のピークは昭和35・36年度で、土地改良区と市町村をあわせて60会員でした。また、連合会の職員数のピークは昭和35年度で、41名が在籍していました。

当時の設立賛同団体 38団体

地区 賛同団体
西多摩(9団体) 瑞穂町、秋多町、五日市町、青梅市、羽村町、奥多摩町、上平井土地改良区、五日市土地改良区、福生土地
改良区
南多摩(5団体) 日野町、柚木町、多摩村、町田市、大丸用水土地改良区
北多摩(13団体) 武蔵野市、狛江市、小金井町、東村山町、清瀬町、田無町、保谷町、久留米町、三鷹用水土地改良区、砂川町七ヶ町村用水土地改良区、三鷹牟礼用水土地改良区、三鷹牟礼神田川土地改良区、府中用水土地改良区
区部(11団体) 足立区土地改良区、東京葛西土地改良区、上下之割土地改良区、新河岸土地改良区、赤塚土地改良区、石神井土地改良区、仲町土地改良区、新中川沿岸第二土地改良区、新中川沿岸第三土地改良区、葛飾北部土地改良区、毛長掘土地改良区

連合会発足を伝える土地改良だより

有楽町の日本交通協会大講堂での総会風景

連合会発足当時の土地改良だより

当連合会が発足した昭和30年代は、東京が大都市へと発展のスタートを切った時代でしたが、区部周辺地域や多摩地域には広大な農地が広がり、農業の近代化のために土地改良事業が積極的に進められました。
当連合会の前身である東京都土地改良協会から、昭和33年に東京都土地改良事業団体連合会へと組織体制を強化した当時の土地改良事業の様子が「土地改良だより」に掲載されています。掲載記事や画質の良くない当時の写真からも、土地改良区が熱心に農地の改良に取り組んだ様子がうかがえます。
ここでは、昭和32年4月の第1号から昭和33年11月の第10号までをご紹介します。